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『エヴァ』の庵野秀明監督が怪我!左脚の複雑骨折で入院

庵野秀明氏 NEWS(総合)
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アニメ制作会社カラーは7月31日、代表取締役の庵野秀明監督が左脚の複雑骨折により入院していることを発表しました。

公式サイトによると、2024年8月に予定されていた庵野監督の登壇イベントはいくつかキャンセルされることとなり、関係者やファンに対して謝罪の意を表明しました。「しばらくの間、治療に専念させていただきます」とのことです。

また、8月11日に兵庫県立美術館で予定されていた『描く人、安彦良和』展のスペシャル対談も中止となりました。実行委員会は「庵野監督の早期回復を祈っております」とコメントしています。

怪我の原因について

庵野秀明監督の左脚複雑骨折について、詳しい怪我の原因は公表されていません。監督ご本人が理由を公開したくない意向であるため、残念ながら具体的な原因を知ることは難しい状況です。

監督の妻である安野モヨコさんが、骨折の様子や状況についてX(旧Twitter)で少し触れておられます。骨折の場所は脛の骨の下の方と足首のジョイント部分で、レントゲン写真を見ると大きくひび割れて脱臼していたとのことです。頭や他の場所をぶつけた形跡はなく、複雑骨折に至った経緯は謎に包まれています。

なぜ原因が公表されないのか?

  • プライバシーの保護: 監督は、個人的な怪我について公にすることを望んでいない可能性があります。
  • 詳細を控えたい: 具体的な原因を公表することで、不必要な憶測や詮索を招くのを避けたいのかもしれません。
  • 今後の活動への影響: 怪我の原因を公表することで、今後の活動に影響が出ることを懸念している可能性もあります。

現時点でわかっていること

  • 左脚を複雑骨折し、入院している。
  • 8月のイベントなど、いくつかの出演をキャンセルしている。
  • 怪我の場所は脛の骨の下の方と足首のジョイント部分。
  • 頭や他の場所をぶつけた形跡はない。

ファンへのメッセージ

安野モヨコさんは、ファンや関係者に向けて、「みなさまのご想像にお任せしますが頭やその他の場所はぶつけておらず、問題ありませんのでご安心いただければと思います」と呼びかけています。

まとめ

現時点では、庵野秀明監督の怪我の原因は不明です。監督のプライバシーを尊重し、今後の治療に専念できるよう、温かく見守ることが大切でしょう。

庵野秀明 プロフィール

庵野秀明(あんの ひであき) 誕生日:1960年5月22日 出身地:日本/山口県

庵野秀明氏は、日本のアニメ監督、アニメーター、脚本家、映画監督、声優、そして実業家です。株式会社カラーの代表取締役社長を務めるほか、株式会社プロジェクトスタジオQの創作管理統括、株式会社でほぎゃらりーの取締役、NPO法人アニメ特撮アーカイブ機構の理事長も兼任しています。

山口県宇部市出身で、山口県立宇部高等学校を卒業後、大阪芸術大学芸術学部映像計画学科(現・映像学科)に進学しましたが、途中で除籍となりました。血液型はA型で、妻は漫画家の安野モヨコさんです。

安野モヨコさん

別名義として、アニメーションを手がける際のあんの ひであきアンノ ヒデアキ、作詞家としての空母そ・そ・そ・そ、樋口真嗣との作詞コンビHIDE&シンディー♡などがある。

庵野秀明 主な代表作

代表作には『トップをねらえ!』や『ふしぎの海のナディア』、第18回日本SF大賞を受賞した『新世紀エヴァンゲリオン』、そしてゴジラシリーズ第29作で第40回日本アカデミー賞など数々の賞を受賞した『シン・ゴジラ』などがあります。彼は、宮崎駿、山崎貴に続き、日本アカデミー賞の最優秀作品賞と最優秀アニメーション作品賞の両方を受賞した史上三人目の映画監督です。

幼少期から絵を描くことが好きで、高校時代には自主制作映画を始めました。大学生時代の1980年代には、アニメ制作会社ガイナックスの前身となる自主制作集団「DAICON FILM」を結成し、日本SF大会大阪コンベンションでオープニングアニメーションや作品の制作に携わりました。

庵野秀明 生い立ち

幼少期からアニメや特撮、大規模建造物の絵を熱心に描いていた庵野秀明氏。彼が育った山口県宇部市はセメント工業が盛んな街であり、その工場群の風景が彼の人工物やメカニックへの興味に影響を与えました。高校時代には「工場のある赤い風景」といった作品を描いていました。また、漫画少年でもあり、中学生の頃には特に少女漫画を多く読んでいました。

庵野氏の父親は若い頃の事故で左足の膝から下を失い、義足を装着していました。1999年8月30日の朝日新聞「おやじの背中」では、父親のその姿に影響を受け、完全なものを好まない、自分にとっては何かが壊れ、欠けていることが普通であると語っています。

山口県立宇部高等学校では、美術部の部長を務めるほどの画力を持っていました。また、アマチュア映像制作グループ「グループSHADO」にも所属し、自主制作の映像作品『ナカムライダー』が文化祭で上映されました。

庵野秀明 大学生時代

高校卒業後、就職せずに遊んでばかりいたため、親に心配されました。一浪の後、入試が実技のみであった大阪芸術大学映像計画学科に進学しました。受験対策として、宮崎駿らの絵コンテを見て勉強したそうです。

同じ学科には、南雅彦や西森明良などの同業者、広告デザイナーの碇義彦、漫画家の島本和彦や士郎正宗などが在籍していました。士郎とは学生時代に面識があったかは不明ですが、後に『アップルシード』や未発表の『蒼きウル』で共にスタッフとして参加しています。

庵野氏はSF研究会に所属し、同級生の山賀博之や赤井孝美らと班を作りました。山賀氏は後に「特にメカの描写は圧倒的だった」と語っており、学生生活の様子は島本和彦の漫画『アオイホノオ』に詳しく描かれています。

その頃、2回生に誘われた自主制作アニメに熱中し、山賀たちと共に自主制作映画グループ「DAICON FILM」の主要メンバーとして活動しました。大阪で開催されたSF大会では、オープニングアニメーションや特撮作品を制作し、プロをも驚かせる高い評価を受けました。この時、スタジオぬえのメンバーに誘われ、山賀たちと共に『超時空要塞マクロス』の制作に参加し、数話分の動画から原画までを担当しました。特に描いた爆発シーンが評価され、仕事が増えました。

また、『アニメージュ』に掲載された劇場アニメ『風の谷のナウシカ』の作画スタッフ募集告知を見て上京し、原画担当として採用されました。

学校生活では、共同実習にしか出席せず、学費も未納状態だったため、3回生時に除籍処分を受けました。しかし、庵野氏は単位さえ取れれば良いという周囲のやる気のない学生に付き合うよりも、自分の作品を作り続ける方が意義があると考えていました。この時には既に『風の谷のナウシカ』への参加が決まっていました。また、漫画家を目指そうとした時期もありましたが、才能がないと考え断念しました。

庵野秀明 アニメーター時代

上京後、庵野秀明氏はアニメーターの板野一郎氏を紹介されました。板野氏が描いた『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編』の原画を見て感動し、「こんな素晴らしい原画が存在するのか」と驚いたそうです。その後、プロとしてのキャリアをスタートさせ、板野氏の指導のもと『超時空要塞マクロス』の原画修正を任されました。さらに、劇場版『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』にも参加しました。

その後、劇場アニメ『風の谷のナウシカ』やOVA『メガゾーン23』などの商業作品に参加し、メカや爆発シーンなどのエフェクトアニメーションを手がけました。『風の谷のナウシカ』では、採用時に持参した大量の原画が宮崎駿監督に評価され、クライマックスの巨神兵登場シーンを担当することになりました。この際、人物も描くよう指示されましたが、出来が悪かったため宮崎監督本人に頼んだというエピソードがあります。この頃から、原画や動画だけでなく、監督や演出の仕事にシフトすることを考え始めました。ちなみに、パンフレットに記載されている「巨神兵の呪いを受けて腹を壊したA氏」は庵野氏のことです。宮崎監督からは特に監督としての仕事の進め方を学んだといいます。また、『機動戦士ガンダム』の富野由悠季監督らと共に仕事ができたことを非常に幸運だったと語っています。

その後、DAICON FILMを母体とするガイナックスの初作品『王立宇宙軍 オネアミスの翼』には「スペシャルエフェクトアーティスト」という肩書きで参加しました。この長い肩書きは、「SFX」や「アーティスト」という呼称を嫌っていたため、世間への嫌がらせとして命名したものです。クライマックスシーンでは、戦闘やロケット発射シーンの絵コンテから作画までほとんどを一人でこなしました。セルを1コマに9枚重ね、3秒間でセル枚数が250枚にも上るカットもありました。当時、戦車やミサイルなどに極限のリアリティを追求し、軍事関係の資料を徹底的に調べ、自衛隊にも体験入隊しました。

庵野秀明監督作品『トップをねらえ!』『ふしぎの海のナディア』

庵野秀明監督の作品『トップをねらえ!』と『ふしぎの海のナディア』は、それぞれOVAとして発売され、NHK総合テレビジョンで放送されました。

  • 両作品ともにアニメや特撮のパロディやオマージュが多く取り入れられており、特に爆発やエフェクトパターンは実写を忠実に再現しています。
  • 『トップをねらえ!』第5話の戦闘シーンの収録時には、主演の日髙のり子さんに「自ら必殺技名を絶叫してみせる」という体当たりの演技指導を行ったという逸話があります(2004年8月27日発売のDVD『トップをねらえ! パーフェクトガイド』声優座談会より)。
  • 『ふしぎの海のナディア』では、グランディス一味が「タイムボカンシリーズ」の三悪の変形版となったのは庵野監督のアイディアです。また、ハンソンの口癖「そ、そ、そ、そ」は庵野監督自身の口癖です。
  • 主人公ナディアの性格は、当時の庵野監督の性格を反映しており、ナディアが冷たかったりわがままに描かれているのは、恋愛で振られた時の自身の女性観を元にしているためです。また、「南の島編」でのナディアの暴走ぶりも「周りから見た庵野監督」をモチーフにしています。さらに、ナディアが偏食家で肉と魚を一切食べられないという特徴も庵野監督がモデルです。
  • キングについては当初「実は宇宙人」という設定があり、最終回でキングの着ぐるみを脱いで正体を現す予定でしたが、周囲の反対でこの構想はなくなりました。

『新世紀エヴァンゲリオン』シリーズ

1995年にテレビ東京の18時のアニメ枠で放送が開始され、1997年以降は劇場版として制作されたこの作品は、大ヒットを記録し、「庵野監督の代表作」として広く知られています。数々の賞を受賞しており、その評価は高いです。

テレビシリーズの後半、特に最終回の2話とその前の展開については、パソコン通信上で激しい議論が繰り広げられました。批判的な意見も多く、「原画マンと喧嘩した」や「途中までは考えていたが、最後は全く考えていない」などの噂が広まり、脚本が出回るなどの大騒動に発展しました。この現象について、庵野監督は「パソコン通信にハマる人たちは『現実世界に帰れ』」と苦言を呈しています。また、テレビ放映後から劇場版公開ごろの『エヴァブーム』の時期には、インターネット上のチャットや電子掲示板での作品論争を「便所の落書き」と表現しています(1996年 – 1997年ごろの発言)。詳細は『スキゾ・エヴァンゲリオン』や『パラノ・エヴァンゲリオン』を参照してください。

実写映画への進出

『新世紀エヴァンゲリオン』の制作終了後、庵野秀明監督は実写映画の分野に進出し、『ラブ&ポップ』や『式日』、『キューティーハニー』などを手がけました。その後のアニメ作品では、俳優を声優として起用することが増えました。これは、職業声優の限界を感じ、新たな可能性を模索するためだといいます。幾原邦彦氏の紹介で舞台にも非常に興味を持っているものの、まだ取り組む機会がないため、映画制作に専念しているとインタビューで語っています。

結婚

2002年3月26日、庵野秀明氏は共通の知人である貞本義行氏の紹介で漫画家の安野モヨコさんと知り合い、結婚しました。4月28日には「ダブルアンノの結婚を祝う会」と称した結婚披露宴パーティーが行われ、新郎側の主賓として宮崎駿監督、新婦側の主賓として桜沢エリカさんがそれぞれスピーチを行いました。庵野氏は安野さんの『ハッピーマニア』などを読んで高く評価していました。安野モヨコさんは本名を公開していませんが、ペンネームの読みが「あんの」であるため、「Wアンノ」として話題になりました。

安野さんの漫画作品『監督不行届』では、二人の結婚生活が描かれています。作中での呼び名は「カントク(庵野)」と「ロンパース、モヨ(安野)」です。また、結婚を機に安野さんの食事管理によって、庵野氏は体脂肪率40%越えから180cm73kg体脂肪率22%までの減量に成功しました。庵野氏は身の回りに無頓着で、充分な収入がありながら風呂の壊れたアパートに住んでいたため、結婚前は1年間風呂に入らなかったり、洗濯もせずに服がボロボロになるまで着用し、汚れたら捨てるとい